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㈱太陽家具百貨店 代表取締役会長 川崎敦将儀の急逝を悼む



 地球温暖化のせいだろうか。ここ数年は3月中に桜の花が満開を迎えて、入学式には桜が散っていることが多かったが、今年は4月の初旬を過ぎても桜が咲き誇り、まさに満開を迎えたその日、4月11日に衝撃の電話が鳴った。山口県宇部市に本社を置く㈱太陽家具百貨店の代表取締役会長である川崎敦将氏の急逝を告げる一報である。
 確かに最近は検査入院などで以前に比べると病院のお世話になることが増えたとぼやいてはいらっしゃったが、まだまだお元気で、今年に入っても通常通りのお仕事をされていると伺っていただけに「え!」と、最初の言葉を疑った。しかし、電話の相手は泣き声とも嗚咽とも分からない途切れ度切れの言葉で、「本日(11日)、午後1時41分に太陽家具百貨店の川崎会長がお亡くなりになった連絡が入りました。今まさに病院からご自宅にお帰りになっている最中のようです」と語った。雷に打たれたようとはこういったことを言うのだろうか、只々唖然として次の言葉が出てこない。「ご連絡ありがとうございます。こちらでも太陽家具百貨店さんに確認してみます」とだけ言葉を絞り出し電話を置いた。その後ははっきりとした記憶がない中で、太陽家具百貨店の総務部にその事実確認の連絡を入れ、間違いないこととの確認の後、関係者にその事実だけを発信した。

 川崎敦将氏。 大正15年2月2日生まれで享年92歳。昭和17年に学校進学をあきらめて中本木工所に入社(弟子入り)して斯業界への第一歩を踏み出した。22年に独立して家具製造業者「川崎工作所」を個人創業、先見の明があった川崎氏は『作ることから売ることへ』業態変化を推進し29年には宇部市銀天街に家具小売店「太陽家具百貨店」を開設した。そして、同店が38年11月に㈱太陽家具百貨店に法人改組すると共に代表取締役社長に就任、以来一貫して経営の最前線に立ち代表取締役として同社の発展に取り組んできた。
 宇部という一地方都市にありながらその経営手法は常に時代、時代の最前線を歩むものであり、40年には多店舗化の一環として徳山店を開設、翌年には萩店を開設しその後も山口県下への出店を推進していった。この間43年には火災によって本店を消失するアクシデントもあったが、持ち前のバイタリティでピンチをチャンスに換えて事業をさらに拡大、47年には遂に関門海峡を渡り九州進出一号店となる小倉店を開設した。今では懐かしい話にもなるが、集客対策で有名芸能人を招いた歌謡ショーを行ったり、顧客の囲い込みのために友の会を運営したりとアイデアマンでもあった川崎氏は、九州進出後はさらに多店舗化を加速、店舗業態も単に家具という商品を陳列して販売するだけでなく、「ライフステージ型」という生活空間を意識した陳列と、家具プラスαの商材を一緒に販売する店舗に変更、その心血を注いだ太陽家具百貨店は最盛期となった平成9年期には年商も135億円にまで拡大することとなる。

 また、川崎氏の人柄や取り組みを語る際に忘れてはならないのが、そのパトロンシップではないだろうか。後に川崎美術館を開設するほど美術・芸術に造詣が深いことはよく知られているが、地元のスポーツチームや団体、子供たちの育成団体のスポンサーとしての活動と貢献は計り知れない。
 この姿勢は地元地域に対してだけでなく、全国家具連盟SH会や一般社団法人アジア家具フォーラムなどの業界団体への取り組みに対しても変わりがなく、民間外交の担い手としても中国家具協会やマレーシア国際家具見本市主催者などと積極的に交流を進めてこられた。実際今回の訃報に際して、中国やマレーシアなどの家具業界関係者から数多くのお悔やみが届いている。

 『腹七分目経営』を標榜し、決して無理をしないことが大事と言われていたが、私は川崎氏ほどバイタリティに溢れ、誰よりも頭と体を動かして仕事をしている人を見たことがない。ご自身は仕事が大好きで、仕事を仕事と思っていないので、『腹七分目』で無理をしていないということになるのだろうが、私のような凡人から見れば、どんなに無理をしても決して真似できない仕事への取り組み方である。
 『人柄はもの作りに表れる』と、90歳近くになっても自分で車を運転し、展示会や取引先、さらには自社の店舗など現場に足を運び続けていたお話は驚きとともに、大きな目標でもあった。会社を訪ねてお会いする時も、『どうかね』の一言と共に両手で必ず握手をして、しっかりとこちらの手を握り締めて下さる。そして目を見ながらこちらの思いを総て悟ったようににっこりと笑い『元気に頑張っているようだね。パワーを感じるよ』と言葉を続けて下さる。
 『家具業界が発展するためにはみんなの努力が必要。決して楽をしようとは思わない』と、業界が低迷する中でも、チャレンジを続けることが大事だとして、メーカーの海外展示会への出展についてもその支持を表明、前述の民間外交と合わせて、平成24年には大連市家具協会から地元業界関係者以外からは初めてとなる大連市家具協会名誉主席の任命を受けるなどしている。

 『いえ、どこかでピリオドを打つつもりですよ』 忘れもしない平成15年に当時78歳だった川崎会長にインタビューをお願いした時の最後の質問『このまま生涯現役を通すお覚悟なのですか?』に対しての返事。その時川崎会長が見せた柔らかな笑顔がとても印象的だった。今となってはこの返事だけは川崎会長が守れなかった言葉となるのかもしれない。最後の最後まで、ご自身が大好きだった家具の仕事に最前線で取り組みながら、92歳という生涯を閉じられたこととなる。

 個人的には、今年2月にフランスベッドさんの会合でお会いしたのが最後となったが、その別れ際に『またお会いしましょうと』いつも通りの力強い握手をいただき、その温もりがまだ手に残っているようだ。常に現場の最前線での見聞を大切にされる川崎会長とは、最近10年だけでも20回近く海外を同行しているのではなかった。国内産地はもちろんのこと、グローバル化が進む業界では海外の動向も大切というお考えであったが、私としてはまだまだ川崎会長にお聞きしたり、教えを乞いたいことがたくさんあった。

 最近では珍しい4月に入っての満開となった桜と同様に、この92年という歳月は川崎会長にとって本当に素晴らしい一生だったのだろうと信じ、その大往生に哀悼の意を表したいと思います。
 只々、安らかにお眠りなられることを望むと共に、ご家族や会社関係者の皆様には、あまりにも大きな悲しみの中にいらっしゃるとは思いますが、くれぐれもご自愛のほどお祈り申し上げます。

編集主幹 阿部野 育三

 尚、後日改めて「お別れの会」を行う予定とされるが、現時点では日程等の詳細については決定してない模様。 
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